2013/09
初の女性博士 保井コノ君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ11 ]

お茶の水女子大学を訪ねる
 文京区大塚にあるお茶の水女子大学を訪ねた。その日はオープンキャンパスの日で、女子高校生たちが、それぞれの志望する学部の話を聞きに訪れている様子であった。
 オープンキャンパスに併せて本館一階にある歴史資料館が一般にも公開される。私の訪問はこの見学が目的であった。
 歴史資料館には開校時昭憲皇太后から下賜された文箱や縁の品々が展示され、東京女高師と奈良女高師の交流などが展示されていた。

明治の女子教育
 幕末から明治初期に海外渡航した多くの人たちが、欧米女性の地位が高いのに目を見張った。黒田清隆はアメリカ公使森有礼とニューヨークで会談した時、我が国の近代化を急ぐためには先ず子供の教育が重要である。子供の教育には母親が重要な役割を果たすので、皆が米国女性と結婚するのが早道だとまで言っている。そこまで言いながら実生活の男性中心は変わらず、女性の社会進出は遅々として進まなかった。
 官立女学校は1872年(明治5年)に開校した東京女学校が最初であった。1875年(明治8年)に東京女子師範学校が開校すると、東京女学校の生徒たちは女子師範学校に移り明治10年、わずか5年で東京女学校は廃校になった。
 1886年(明治19年)の尋常師範学校令により、各府県に教師養成のための師範学校が順次設立され、男子部と女子部が設けられた。同年に小学校令も交付され、尋常小学校(修業4年)と尋常高等小学校(修業4年)が義務教育とされた。
 その後、1899年(明治32年)には高等女学校令が公布され、各地に高等女学校が設立されたが、その水準は男性の中学校相当であり、良妻賢母教育が中心であった。


女性科学者の先駆けたち
 ここに登場する保井コノは1927年(昭和2年)、我が国最初の女性理学博士(植物学:東京大学)である。続いて1929年(昭和4年)には黒田チカが、天然色素の研究により東北大学から理学博士(化学分野)を授与された。3番手は宮川庚子の医学博士である。東京女子医学専門学校卒で東京大学から1931年(昭和6年)に授与された。
 農学博士の第1号は辻村みちよで1932年(昭和7年)、薬学博士第1号は鈴木ひでる、日本女子大の出身で1937年(昭和12年)に東京大学より授与された。数学の理学博士1号は北海道大学で始めての女性教授となった桂田芳江で、1950年(昭和25年)であった。
 この他、日本女子大の丹下ウメは留学先のジョンズ・ホプキンズ大学から1927年(昭和2年)に理学研究でPh.Dの学位を取得し、帰国後は鈴木梅太郎博士の理化学研究所で研究を続けて農学博士の学位を取得している。
 ここに示した女性たちの活躍は、差別と偏見を乗り越えて新たな道を開拓していった女性科学者の歴史である。
 保井コノは1880年(明治13年)、香川県大川郡大内町三本松で廻船問屋の長女として生まれた。田舎町にも拘らず両親は教育熱心で、高等小学校卒業後、香川県立師範学校女子部に入学し、卒業後は更に東京の女子高等師範学校理科へ進学した。
 官費学生には卒業後教員として奉職することが義務付けられており、コノは県立岐阜高女の理科教員となった。1905年(明治38年)に女高師に2年間の研究科が設置されることとなり、理科第1回研究生にはコノが選ばれた。


差別と研究生活
 理科研究生に選ばれた保井コノは、動物学の岩川友太郎教授の指導で鯉のウエーベル氏器官について研究し、1905年にはその成果を動物学雑誌に発表した。女性の研究論文が学術雑誌に掲載された最初である。
 しかし、保井コノは蛭など動物の解剖は好きになれず、植物細胞学へと転向する。東大農学部の三宅驥一教授の指導を得て「サンショウ藻の生活史」を植物学雑誌に発表した。三宅教授の勧めでこの論文は、英国の雑誌Annals of Botanyにも投稿、掲載された。海外の雑誌に日本女性科学者の論文が発表された最初である。保井コノは1907年に研究科を卒業して、母校の助教授に採用された。
 国立大学の研究者が助教授となると、海外留学を命じられる。保井コノは1914年(大正3年)、文部省より海外留学が命じられた。海外留学は当然ながら自らの研究領域を更に拡げるものであるが、文部省から与えられた研究テーマは「家事の理科研究」なる奇妙なものであった。女性の場合は名目上は家事に関する研究テーマとすべきという、文部官僚の差別意識の現れだろう。同様に、女子留学生は一生独身で研究に専念すること、という不文律があったともいわれる。
 最初の留学先はドイツを希望していたが、第1次世界大戦が勃発したため留学先をアメリカに変更した。最初はシカゴ大学で植物学の研究を行い、次の年にハーバード大学のエドワード・C・ジェフリー教授の下で植物の化石について研究した。
 具体的なテーマは日本産石炭の構造解析である。ジェフリー教授は世界の石炭の研究を続けているが、コノの帰国に際し、「日本の石炭は研究対象から外しておくので、帰国しても石炭の研究を続けるように」と云われた。
 帰国して母校の教授となるが、女高師は教員養成を主としており、研究環境も費用も整っていなかった。中川謙二郎校長の計らいで、東京帝国大学理学部遺伝学講座の藤井謙二郎教授の嘱託研究員の資格を得て、研究を続けることができた。コノは研究材料の石炭を求めて、自ら炭鉱の現場まで歩きまわったと云われている。
 藤井謙二郎の研究は細胞学を基礎とする遺伝学であり、保井コノは一方では細胞学・遺伝学の研究を行い、もう一方ではジェフリー博士の指示通り石炭の研究を続けた。
 1927年(昭和2年)、コノは「日本産の亞炭、褐炭、瀝青炭の構造について」の博士論文を提出し、東京帝国大学より博士号が授与された。我が国最初の女性博士誕生である。その後も保井コノの研究姿勢は衰えることなく、生涯に発表した論文は百篇を超えると云われている。


晩年
 戦後、1949年(昭和24年)に新制お茶の水女子大学が発足し教授に就任した。既に69歳になっていた。72歳で退官し名誉教授となり、その後は細胞学雑誌「キトロギア」の編集者として活躍を続けた。昭和30年に紫綬褒章を受章し、昭和40年には勲三等瑞宝章を受章した。
 大学退官の祝い金は後輩黒田チカと共に「保井・黒田奨学金」として大学に寄付し、若い研究者の育成のために活用されている。
 我が国「女性初」の記録を作り続けながら、女性科学者の道を切り拓いた保井コノは、昭和46年、91歳の生涯を終えた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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